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硫黄島からの手紙3

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「硫黄島からの手紙」を見てから思い出してしまって
どうしても頭から離れないことがあります。

まだ、テレビがなく娯楽と言えばラジオが中心だった、
1950年代初めの頃、私は小学校に上がったばかりでした。
夕方薄暗くなった家に一人でいてラジオの
「尋ね人の時間」を聞いていたことを思い出します。
抑揚のない低い声で延々と
「シンガポールのーーー戦線でーーーした○○県の○○さん、○○さんが探しています」
「ビルマのーーーーー
「フィリピンでーーーー
「サイパンのーーーー
「グァムのーーーーー

こうした地名は暗い思い出となって私の体に染みこみました。
この土地には深い悲しみがしみこんでいると子供心に感じていたのです。

戦後、30年ほど経ったころ弟が新婚旅行でグァムに行くと言った時は
驚きました。  これらの土地には深い追悼の気持ちなくしては行かれない、
物見遊山で出かけることなど出来ないと思い込んでいたからです。
今でも、私はアジアの国々へ普通の気持ちで遊びに行くことなど、とても出来ません。


同じころ、夏休みの小学校の校庭で映画会が開かれました。
今と違って、夜は真っ暗で校庭にシーツのような布を掛けただけで
立派な映画館になったのです。

ここで上映されるのは三益愛子主演の「母もの」と言われる映画で
空襲などで生き別れになった母が子供を捜し歩き、苦労の末にめぐり合うと言う話でした。
私はこの時、主人公を演じている人を不幸な人なのだと信じていましたが
本当は松竹の重役の奥さんで、凄いお金持ちなのだと知って映画のうそを知りました。

今、日本の映画史の中で「母もの」は全く姿を消してしまっているようなのですが
どういう扱いなのでしょうか。

この「母もの」映画は日本人が自分たちを加害者ではなく
戦争の被害者だと思い込むことに大きな役割をはたしたのだと思えてなりません。
by 9peace | 2007-02-12 21:10
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