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もう春ですよ~~

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2月22日横浜
ソメイヨシノではないけれど桜が満開です。
沈丁花も満開で春の香りを放っています。
ところが今日25日の寒いこと!!
北風が強くてこの冬一番の寒さ!
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by 9peace | 2007-02-25 19:17 | 日々のこと

ひな祭り

遅くなりましたが、今年もを飾りました。
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去年の投稿は容量の関係で削除してしまったので
初めての登場です。
20年近く仕舞いっぱなしだったので虫に食われていますが
見た目は大丈夫。良かった!!
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by 9peace | 2007-02-19 11:55 | 日々のこと

ダブルウェディングリング

数年前ロンドンに旅行したとき老舗デパート「リバティー」で
キットの布を買ってきてそれを使い切るパターンでベッドカバーを
作りました。
ボーダーに当たる周りの濃い赤は日本で買ったリバティーです。
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真夏のロンドンは大変でした。
街の中に暑さ対策がなくて屋根までガラス張りの観光バスに
冷房設備がないし、スーパーで売ってるものがすでに傷んでいたり。
デパートも旧館には冷房がなく真っ黒な大きい扇風機が暑い空気をかき回していました。
ホテルも空調設備がないのだけれど、北向きの石造りだったから
部屋は暑くなくて助かりました。
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by 9peace | 2007-02-16 10:41 | 私の好きな物

嬉しい便り

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ポストの上にかわいい天使が座ってました。
こんなにかわいいポストから届く便りは
嬉しい、楽しい便りですね。
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by 9peace | 2007-02-14 15:41 | 日々のこと

硫黄島からの手紙3

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「硫黄島からの手紙」を見てから思い出してしまって
どうしても頭から離れないことがあります。

まだ、テレビがなく娯楽と言えばラジオが中心だった、
1950年代初めの頃、私は小学校に上がったばかりでした。
夕方薄暗くなった家に一人でいてラジオの
「尋ね人の時間」を聞いていたことを思い出します。
抑揚のない低い声で延々と
「シンガポールのーーー戦線でーーーした○○県の○○さん、○○さんが探しています」
「ビルマのーーーーー
「フィリピンでーーーー
「サイパンのーーーー
「グァムのーーーーー

こうした地名は暗い思い出となって私の体に染みこみました。
この土地には深い悲しみがしみこんでいると子供心に感じていたのです。

戦後、30年ほど経ったころ弟が新婚旅行でグァムに行くと言った時は
驚きました。  これらの土地には深い追悼の気持ちなくしては行かれない、
物見遊山で出かけることなど出来ないと思い込んでいたからです。
今でも、私はアジアの国々へ普通の気持ちで遊びに行くことなど、とても出来ません。


同じころ、夏休みの小学校の校庭で映画会が開かれました。
今と違って、夜は真っ暗で校庭にシーツのような布を掛けただけで
立派な映画館になったのです。

ここで上映されるのは三益愛子主演の「母もの」と言われる映画で
空襲などで生き別れになった母が子供を捜し歩き、苦労の末にめぐり合うと言う話でした。
私はこの時、主人公を演じている人を不幸な人なのだと信じていましたが
本当は松竹の重役の奥さんで、凄いお金持ちなのだと知って映画のうそを知りました。

今、日本の映画史の中で「母もの」は全く姿を消してしまっているようなのですが
どういう扱いなのでしょうか。

この「母もの」映画は日本人が自分たちを加害者ではなく
戦争の被害者だと思い込むことに大きな役割をはたしたのだと思えてなりません。
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by 9peace | 2007-02-12 21:10

父の体験と私の子供のころ

父は30歳のとき赤紙で招集されました。20艘の船団で南方に向かう途中
米軍の魚雷攻撃を受け、父の乗った船「おうりょく丸」だけが
台湾にたどり着いたのだそうです。このとき19艘の船と1000人位の人が
海に沈んだのです。
その後台湾でどんなことがあったのか父は語りません。
「台湾は地図で赤く塗ってある日本だったから良かった」と言うだけです。
「軍の食料の鰹節を台湾の南方にいた妹に持っていって喜ばれた」とは言っていましたが。

敗戦から2年後に帰った父は毎夜うなされたり、飛び起きたりして、
一緒に寝ている母は寝不足を嘆いていました。

その後、父は出征前から勤めていた会社の製品、自転車やリヤカーのタイヤを
横流しして小さな財を築きます。
悪いことをしているとうすうす感じていた子供の私は、得意になっている父に
胡散臭いものを感じ取っていました。

その頃、遊び仲間の子供たちは米軍のジープを見つけると
「ギブミー チョコレート」と言いながら追いかけ、
ばらばらと投げられる
チョコレートやチュウインガムを拾っていましたが、その頃、
我が家には箱いりの「ハーシーチョコレート」があったのです。

それにしても、子供たちはどこで「ギブミー チョコレート」を覚えたのでしょか。
いつものように遊んでいて、突然、「ギブミー チョコレート」と言いながら、走り出した
年上の子供の後を追いながら不思議でなりませんでした。

この頃住んでいたのは「弓道場」です。
1945年5月24日の東京山の手の大空襲で焼け出されたのです。
仮設住宅を建ててくれる訳はないので、焼け残った家に数家族で住んだり
焼け残った板を集めて仮小屋を建てて住んでいたのです。(バラックと呼びます。英語ですね?)
「弓道場」にも台湾から引き上げてきた叔母の家族が一緒でした。

この頃の父や母の(日本人全体の)頭の中はどうなっていたのでしょうか???

庭に鶏が沢山いたのですがいつの間にか全部いなくなりました。
どこに行ったのでしょう。
(若い方には分からないかもしれませんが、食べてしまったのです。
食料が配給などで足りないので自給していたのです)


東京都渋谷区代官山でのことです。
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by 9peace | 2007-02-04 11:52

辛夷館のこと


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開館以来、辛夷館は様々なお客さまを向かえ
私もその報告を楽しみにしていました。

それなのに
突然、訃報が届きました。

常設展示をしている平山礼子さんの
息子さんが
この、辛夷館の改装を最後の仕事にして
亡くなったのです。
44歳。    癌でした。
下のお子さんはまだ2歳です。

今日がお通夜です。

もし辛夷館の開館予定があと一月遅れていたら
開館することが出来なかった、そんな
ぎりぎりのことでした。
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by 9peace | 2007-02-03 11:43 | 日々のこと

暖かい冬ですが

冬は鍋です。
鍋を食べたあと(食べるのは鍋の中身ですが)
芹の根を水に漬けておくと芽が出ます。
それでまた鍋をします。
緑の少ない季節に緑を楽しみ、食べる楽しみもある芹は良いですね~。
(経済的だし)
真ん中のこの芽は3度目に出てきたものです。
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by 9peace | 2007-02-03 11:19 | 日々のこと