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暑い毎日皆さんお元気ですか

私は更新もままならないほど、バテています。
体が沸騰しそう!!などと騒いでいます。
本当に夏は弱いのです。

それでも、何もせずにはいられない性分で
8月3日には「首相官邸前」で『原発反対』を叫んできたし
8月7日は「三浦海岸の花火」に行って波打ち際で
寝転がって目の前いっぱいに広がる花火を堪能してきました。

8月15日
韓国総合教育院からのお誘いで
「光復節」の催しに行ってきました。

第一部はお決まりのあいさつで
自民党、公明党、共産党の議員が壇上に上がっていました。

二部は神奈川フィルハーモニーの演奏に始まり踊りや農楽の演奏
パク・ヒョンビンの歌。

最後の抽選会でなんと!商品券が当たってしまいました!!
有効に使いたいと思います。

この日何よりうれしかったのは
隣に座っていた在日2世の女性と知り合いになれたこと!
住所の交換などもしました。

これからの交流が楽しみです。

暑い暑いと文句を言いながらも、じっとしている日はないのですね~~
勉強会という名のおしゃべり会も!!
10月の韓国旅行の飛行機や宿の予約も初めて一人でやってみたし
何かと充実した夏ではあります。



さて!今日は12月9日に開催が決まった
「夢フェスタ磯子」の事務局会議です。
体が煮えてしまわないよう気を付けて行ってきます。
煮えないようにするには、凍らせた保冷剤を首に巻き
予備の保冷剤を銀色のパックにたくさん入れて
ペットボトルのお茶は半分を凍らせ、そこに冷たいお茶を注いで持っていきます。
(全部凍らせると飲みたい時に飲めないことになってしまいます。)
毎年の暑さで少し知恵がついたでしょうか??


コテツは元気です。
でも、10歳になってアレッと思うことも!!
ベランダの柵にふわりと飛びのっていたのに
昨日、前足をかけて後ろ足で壁を踏んで登っていた!!
こうして飼い主と飼い猫はおなじ廊下の道をたどるのでしょうか??(老化???)
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by 9peace | 2012-08-16 10:26

硫黄島からの手紙3

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「硫黄島からの手紙」を見てから思い出してしまって
どうしても頭から離れないことがあります。

まだ、テレビがなく娯楽と言えばラジオが中心だった、
1950年代初めの頃、私は小学校に上がったばかりでした。
夕方薄暗くなった家に一人でいてラジオの
「尋ね人の時間」を聞いていたことを思い出します。
抑揚のない低い声で延々と
「シンガポールのーーー戦線でーーーした○○県の○○さん、○○さんが探しています」
「ビルマのーーーーー
「フィリピンでーーーー
「サイパンのーーーー
「グァムのーーーーー

こうした地名は暗い思い出となって私の体に染みこみました。
この土地には深い悲しみがしみこんでいると子供心に感じていたのです。

戦後、30年ほど経ったころ弟が新婚旅行でグァムに行くと言った時は
驚きました。  これらの土地には深い追悼の気持ちなくしては行かれない、
物見遊山で出かけることなど出来ないと思い込んでいたからです。
今でも、私はアジアの国々へ普通の気持ちで遊びに行くことなど、とても出来ません。


同じころ、夏休みの小学校の校庭で映画会が開かれました。
今と違って、夜は真っ暗で校庭にシーツのような布を掛けただけで
立派な映画館になったのです。

ここで上映されるのは三益愛子主演の「母もの」と言われる映画で
空襲などで生き別れになった母が子供を捜し歩き、苦労の末にめぐり合うと言う話でした。
私はこの時、主人公を演じている人を不幸な人なのだと信じていましたが
本当は松竹の重役の奥さんで、凄いお金持ちなのだと知って映画のうそを知りました。

今、日本の映画史の中で「母もの」は全く姿を消してしまっているようなのですが
どういう扱いなのでしょうか。

この「母もの」映画は日本人が自分たちを加害者ではなく
戦争の被害者だと思い込むことに大きな役割をはたしたのだと思えてなりません。
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by 9peace | 2007-02-12 21:10

父の体験と私の子供のころ

父は30歳のとき赤紙で招集されました。20艘の船団で南方に向かう途中
米軍の魚雷攻撃を受け、父の乗った船「おうりょく丸」だけが
台湾にたどり着いたのだそうです。このとき19艘の船と1000人位の人が
海に沈んだのです。
その後台湾でどんなことがあったのか父は語りません。
「台湾は地図で赤く塗ってある日本だったから良かった」と言うだけです。
「軍の食料の鰹節を台湾の南方にいた妹に持っていって喜ばれた」とは言っていましたが。

敗戦から2年後に帰った父は毎夜うなされたり、飛び起きたりして、
一緒に寝ている母は寝不足を嘆いていました。

その後、父は出征前から勤めていた会社の製品、自転車やリヤカーのタイヤを
横流しして小さな財を築きます。
悪いことをしているとうすうす感じていた子供の私は、得意になっている父に
胡散臭いものを感じ取っていました。

その頃、遊び仲間の子供たちは米軍のジープを見つけると
「ギブミー チョコレート」と言いながら追いかけ、
ばらばらと投げられる
チョコレートやチュウインガムを拾っていましたが、その頃、
我が家には箱いりの「ハーシーチョコレート」があったのです。

それにしても、子供たちはどこで「ギブミー チョコレート」を覚えたのでしょか。
いつものように遊んでいて、突然、「ギブミー チョコレート」と言いながら、走り出した
年上の子供の後を追いながら不思議でなりませんでした。

この頃住んでいたのは「弓道場」です。
1945年5月24日の東京山の手の大空襲で焼け出されたのです。
仮設住宅を建ててくれる訳はないので、焼け残った家に数家族で住んだり
焼け残った板を集めて仮小屋を建てて住んでいたのです。(バラックと呼びます。英語ですね?)
「弓道場」にも台湾から引き上げてきた叔母の家族が一緒でした。

この頃の父や母の(日本人全体の)頭の中はどうなっていたのでしょうか???

庭に鶏が沢山いたのですがいつの間にか全部いなくなりました。
どこに行ったのでしょう。
(若い方には分からないかもしれませんが、食べてしまったのです。
食料が配給などで足りないので自給していたのです)


東京都渋谷区代官山でのことです。
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by 9peace | 2007-02-04 11:52

硫黄島からの手紙2

映画の本題とは全く関係がないのですが

私が生まれたときの状況とあまりにも似ているので、、、

1944年1月3日父は赤紙で招集され南方に送られました。
このとき父は30歳、初めての子供の予定日が迫っているときでした。
父には二度目の出征です。
最初は20歳のときで、中国で盧溝橋事件を体験しているのです。

私は予定日より早く1月5日に日付が変わってすぐに生まれました。
それから母の苦難が始まるのです。

「疫病神」といわれ
「あ~ァ幸せは○子とともに去りぬだよ」
と言うため息を聞いて育ちました。

母とは仲良くなれませんでしたが
大変だったのだと言うことだけは
理解できていたつもりでした。
映画のチカラはたいしたものです。
母の大変さが胸に迫るものになりました。
父は3年後に無事帰ってきました。それでも
このときの苦難から立ち直れなかった母と
92歳の今も「天皇の兵隊」だという父は
人生そのものを洗脳されたまま過ごしているのでしょうか。

戦争がもたらす不幸はその代だけではなく
子の世代、孫の世代まで続くものかもしれません。

私がなぜ「九条」にこんなにもこだわるのか
自分でも不思議だったのですが
こんなところにその理由があったのかもしれません。

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by 9peace | 2007-01-28 12:25

硫黄島からの手紙

26日、ほんの少し時間が空いたので思いついて
「硫黄島からの手紙」を見に行きました。
130席程のスクリーンに私一人。
スクリーン独占!!


映画の間中
私は考えていました。
『私ならどうするだろう』と

大きなお腹を抱えて夫に赤紙が来たら、、、
私が「愛国婦人会」に居ることになったら、「お国のために死ぬのは名誉なことです」
と言うのだろうか
水さえない不毛の地で、かゆのような薄い食事しかなく
意味もなく罵倒され、殴られ、怒鳴られて
平静で居られるだろうか?
狭い、暗い洞窟の中で、爆発音を聞いて命の危険に晒されて冷静で居られるだろうか?
目の前に敵軍が迫ってきたとき、自動小銃の引き金を引くことができるのだろうか?
弾の飛び交う中を走りぬけることが出来るのだろうか?
私も誰かを非国民と非難するのだろうか?
非国民と言われても信じることを貫けるのだろうか?
信じることとは何だろう?
こんな状況の中で何を信じればいいのだろう?

答えは見つからない。

届けられなかった沢山の手紙たち、たくさんの想い

辛い時間でした。
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by 9peace | 2007-01-27 21:50

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by 9peace | 2006-02-22 22:36