父は30歳のとき赤紙で招集されました。20艘の船団で南方に向かう途中
米軍の魚雷攻撃を受け、父の乗った船「おうりょく丸」だけが 台湾にたどり着いたのだそうです。このとき19艘の船と1000人位の人が 海に沈んだのです。 その後台湾でどんなことがあったのか父は語りません。 「台湾は地図で赤く塗ってある日本だったから良かった」と言うだけです。 「軍の食料の鰹節を台湾の南方にいた妹に持っていって喜ばれた」とは言っていましたが。 敗戦から2年後に帰った父は毎夜うなされたり、飛び起きたりして、 一緒に寝ている母は寝不足を嘆いていました。 その後、父は出征前から勤めていた会社の製品、自転車やリヤカーのタイヤを 横流しして小さな財を築きます。 悪いことをしているとうすうす感じていた子供の私は、得意になっている父に 胡散臭いものを感じ取っていました。 その頃、遊び仲間の子供たちは米軍のジープを見つけると 「ギブミー チョコレート」と言いながら追いかけ、 ばらばらと投げられる チョコレートやチュウインガムを拾っていましたが、その頃、 我が家には箱いりの「ハーシーチョコレート」があったのです。 それにしても、子供たちはどこで「ギブミー チョコレート」を覚えたのでしょか。 いつものように遊んでいて、突然、「ギブミー チョコレート」と言いながら、走り出した 年上の子供の後を追いながら不思議でなりませんでした。 この頃住んでいたのは「弓道場」です。 1945年5月24日の東京山の手の大空襲で焼け出されたのです。 仮設住宅を建ててくれる訳はないので、焼け残った家に数家族で住んだり 焼け残った板を集めて仮小屋を建てて住んでいたのです。(バラックと呼びます。英語ですね?) 「弓道場」にも台湾から引き上げてきた叔母の家族が一緒でした。 この頃の父や母の(日本人全体の)頭の中はどうなっていたのでしょうか??? 庭に鶏が沢山いたのですがいつの間にか全部いなくなりました。 どこに行ったのでしょう。 (若い方には分からないかもしれませんが、食べてしまったのです。 食料が配給などで足りないので自給していたのです) 東京都渋谷区代官山でのことです。
by 9peace
| 2007-02-04 11:52
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